幽明の境・・・月山

きままな読書

冬至も過ぎて冬本番です。北の国では、しばらく雪との共存を余儀なくされるのだろうと思います。

森敦の『月山』を読みました。昭和48年下半期の芥川賞受賞作です。この本は、ずいぶん昔のもの(昭和54年発行)なのでかびの臭いがすごい状態です。ページをめくる度に鼻を刺激されるのでずいぶん閉口しました。

内容は、一人の男(作者)が夏場に七五三掛の湯殿山注連寺を訪ねます。七五三も注連も”しめ縄”のしめです。「すなわち、この寺より先は(密教の聖域であり)神の領域です」の意味とされていたようです。この当時の注連寺は廃れ、住職はおらず寺守りの老人だけが住んでいました。男は、ここで寺男(寺守り)と厳冬期を過ごします。雪多く強い吹きにさらされるこの地区(七五三掛:しめかけ)は、冬場閉ざされます。やってくるのは、カラス(ドブロク買)・乞食(行商人)・富山(薬売り)などの少数の人々だけです。

そんな山奥での季節の移ろい、集落が持つ閉鎖性から受けるとまどい、冬ごもりのなかで行われる念仏講などが淡々と語られています。もちろん、その背後にはいつでも”死者の行くあの世の山とされる月山”があります。
やがて、遅い春が来た頃、訪れた友人に連れられて男はここを出ていきます。

この本を読了した記憶がありません。恐らく途中で投げ出したものと思われます。書物には、接するタイミングがあるようです。昔し投げ出した本も今になって読めばどんどん引き込まれ、カビの臭いも何のその、一気に読んでしまいました。

年齢と共に蓄積された歴史や宗教、地勢と民俗学的な知識などが簡潔な記述もどんどん補完してくれるのです。逆には、そういう蓄積が少ない状態で本書を読んでも、表面的なことの描写を追っても、退屈を感じることになるでしょう。

庄内平野の北には、鳥海山が孤高をもってそびえ、南には月山から朝日岳まで連なる深い山があります。庄内では、「月山を死の山、仏の山。鳥海山を生の山、神の山」と呼ぶそうです。「月山」については、次のように書かれています。

月山は、またの名を臥牛山と呼び、臥した牛の北に向けてたれた首を羽黒山、その背にあたる頂を特に月山、尻に至って太ももと腹の間の隠所とみられるあたりを湯殿山といい、これを出羽三山と称するのです。・・・ 月山を死者の行くあの世の山として、それらをそれぞれ弥勒三尊の座になぞらえたので、三山といっても月山ただ一つの山の謂いなのです。

出羽三山は、古くから山嶽信仰の盛んな場所、修験者の道場でした。
そんな中でも、羽黒山の天台宗、湯殿山の真言宗と大きく二つの宗派に分かれていること。注連寺は、湯殿山派に属し真言密教の即身仏の行も行われていたこと。
江戸時代には「東国三十三ヶ国総鎮守」とされ「日本三大修験山」と称せられておいたこと。
また、明治の神仏分離で三山すべて神社となったこと。寺は廃仏毀釈により、特に特定の人物により、壊滅的な破却を受けたこと。
死者の山がもたらす豊富な水量によって、庄内の豊穣な収穫、生への糧がもたらされていること。

このような背景知識に加えて、近年のIT進展の恩恵をフルに活用し居ながらにしてパソコン上で地名の地図上の位置を確認できること、高所写真により地勢が概観できること、3D画像としての立体象まで確認できます。

これらを駆使すると作品中の描写が容易にイメージ化できることになりました。これらを組み合わせてようやくこの作品のもつ重みがわかるような気がします。

森敦が芥川賞を受けたのは約62歳のことでした。芥川賞としては異例に遅い時期となりますが、このような作品を書くには、それなりの人生の熟成が必要だったのではないかと思いました。

七五三掛に別れを告げ十王峠を越えて下界に出る男の見た月山は、Googleストリートビューで画面上に現れている月山と変わらないのでしょうか。

 

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