7月2015
オーディオ
先日は、コンサートに行きそびれてしまいました。その代わりでもないですが、オーディオ試聴会に行ってきました。場所は、何時もの西東京市の「コール田無」です。ここでの開催は、近場なので大変ありがたいです。
今回は、いわゆるビンテージ(Vintage)物でした。主役は、スピーカのシーメンス オイロダインです。これを、本物のWE300Bで鳴らすとどんな音が出るのか大変興味がありました。
中2つがオイロダイン、両端がJBLのスピーカです。
音楽ソースは、ほとんどがLPで時にテープまれにCDといった感じでした。主催者とっておきの名演奏盤ばかりのようです。
システムは、
主 プリアンプ 金田式DCプリ
メインアンプ WE300Bシングル
スピーカ シーメンス オイロダイン
従 プリアンプ 金田式DCプリ(主と同じ回路)
メインアンプ 金田式A級50W×3(マルチアンプ)
スピーカ JBL 3WAY
オイロダインの情報をネットなどで集めると絶賛の嵐でした。皆さん、究極のスピーカであるとおっしゃられています。オイロダインは、劇場用の音響システムらしいですが能率が良いので8Wクラスの真空管アンプでも十分な音量になるようです。
オイロダインです。畳2枚(1坪)ほどと思える平面バッフルです。大きいです。
裏側はこんな感じ。鉄枠にしっかり固定されています。さすが、プロ機は違うと思わせます。
アンプは、伊藤多喜男さん設計を忠実に再現したもの。途中から、1960年台のWE300B(これが最高らしいです)に差し替えられました。結果は。。駄耳には難しいですが、心なしか安心して聞けるようになったような気がしました。
WE310A+WE300B+WE274BのいわゆるWE91Bと思われます。
全体的に、1960年台から1970年台前半の頃でしょうか。バリバリの現役で使っているので、それぞれを大切に扱っているのがよく判りました。
プリアンプです。ケースマイカにスチコンのパラ接続、MC用トランスなど金田式初期の頃の設計です。懐かしいです。
テープは、2トラ38(2トラック38cmスピード)オープンデッキ。これも、プロ用機とのこと。
オイロダイン・システムを初めて聞いたのと現代風のシステムとは大きく違う音なので戸惑いもありましたが、しばらく経つと流石にハットとする場面が多くなりました。音楽ソースもLPなので、このシステムに適しているのでしょう、生き生きと再現していました。
DCアンプ+JBLは、演奏前や曲間の静かさが印象的でした。
どう見ても、手の届かない機器ばかりでしたが、3時間超良い経験をさせていただきました。
2015年7月31日
まちかど
不覚にも、「小布施」を知りませんでした。先輩から是非行きなさいと勧められ今回訪れました。
長野駅から30分少々、長野電鉄の小布施駅です。この日は、好天で”夏”到来を思わせる暑い日でした。
小布施町の紹介ページによると『鎌倉・室町時代に入ると小布施という名が史料に出てきます。千曲川の舟運が発達した江戸時代には、今も安市に面影を残す定期的な六斎市がたち、北信濃の経済・文化の中心として栄えました。幕末には、葛飾北斎や小林一茶をはじめ多くの文人墨客が訪れ、地域文化に花を咲かせています。』とあります。
小布施のすごいところは、単なる街並み保存ではなく、景観づくりからまちづくりへと持続的な努力をしていることにあると思います。これらは、「街並修景事業」で検索すると多くの報告が出ているのが判ります。
奥の建物は、信用金庫です。景観に配慮しているのがわかります。
昔からの小径や、屋敷内の庭園を楽しむことも出来ます。
市神です。市(いち)の守護神です。さりげなく置いてあります。
北斎のアトリエだったところです。六畳+床の間ほどでした。高山鴻山記念館
もちろん街並みばかりでなく、歴史ある芸術・文化を展示する美術館・博物館の数々、地域特産の食の提供、大学との連携などなど盛りだくさんです。
美術館、博物館はおおくあるのですが今回はこの3カ所としました。
いろいろ資料に当たると、北斎館が小布施の中心施設のようです。『葛飾北斎が、地元の豪商、高山鴻山に招かれて小布施に来たのは83歳の時この時既に北斎は、肉筆浮世絵に移っていた。』 肉筆浮世絵は、キャンバスに浮世絵を描くので一点物となるところが、版画版の浮世絵とは大きく違います。北斎は、高齢にもかかわらず、製作欲旺盛で多数の作品を小布施に残したらしいです。
ラッキーなことに、ちょうどこの週から、シカゴ・ウエスタンコレクション「肉筆浮世絵」が開催されていました。北斎、歌麿、豊国、暁斎らの作品が堪能できました。
小布施駅ホームから北西を見ています。山に囲まれ、これぞ信州と魅せられてしまいます。雲の合間から遠く大きく妙高山が見えました。(写真では、雲に隠れています)
善光寺平のあちこちに豊かで確かなコミュニティの存在があったことを知らされました。明治以降、とりわけ戦後、「経済成長」のために都会に吸い寄せられ、このコミュニティを分断され、そして孤人となっていく現代人の救いのヒントがここにあるように思いました。
2015年7月20日
まちかど
松代と聞いて群発地震と大本営巨大地下壕を思い浮かべる自分でした。今回、松代を訪れて深い歴史の地であることを知ることになりました。
松代は、川中島(犀川と千曲川が合流する三角地帯 上杉、武田の合戦で名高い)の南方に位置しています。また、松代藩真田家の本拠があったところです。
松代駅です。正確には駅跡です。2012年4月に鉄道が廃止され、駅舎のみがそのまま残っています。ホームはありますがレールは全て撤去されていました。Google Earthで見ると鉄路をハッキリと確認できます。
真田家の菩提寺「長国寺」です。真田信之(真田幸村の兄)が上田から松代に移ったのは徳川幕府成立後の1622年のことで、以来、300年間松代藩主でした。本堂には、有名な六連銭(六文銭とも)がしっかり見えます。
初代松代藩主真田信之公の御霊屋(重文)です。正面の唐破風の雌雄の鶴は左甚五郎作と伝えられているそうです。ご厚意により内部を拝観できたのですが、色彩豊かな彫り物や画を見ることができました。中でも、格天井の狩野探幽筆と伝わる天井画は見事なものでした。もちろん撮影は御法度です。
御霊屋の後方の一角に真田家代々の墓所があります。真田信繁(幸村)、幸昌(大助)父子の休養碑もありました。こちらは、流石にず~と下って大正三年の建立らしいです。
松代城本丸御殿跡
松代城は、松代藩真田家の居城ですが、その前身は、”武田信玄と上杉謙信が信濃の覇権を競った川中島合戦で、武田側の拠点として築城されたといわれています。千曲川の流れを外堀とする天然の要塞で、当時は「海津城(かいづじょう)」と呼ばれた”とパンフレットにあります。
他に、長国寺には恩田木工民親(おんだもくたみちか)の墓所も有りました。恩田木工?でしたが後で調べると「日暮硯」とあり、そういえば昔読んだ記憶があるような無いようなでした。また、佐久間象山が松代藩士であったことも失念していました。事前に調べておけば良かったと反省しています。
来年のNHK大河ドラマは「真田丸」らしいです。ドラマは、信繁(幸村)中心のようですが、真田家ゆかりの地として松代も賑わうことでしょう。
この後、長野市内に帰り宴会です。とても楽しい時間を持つことができました。
2015年7月19日
まちかど
長野に行ってきました。長野県は、何度も訪れているのですが、長野駅で降りるのは初めてです。
長野駅に着いたのは、約束の時間の2時間前でした。初めての長野市なら、何はなくとも「善光寺」ですよね。信州そばで腹ごしらえをして善光寺に急ぎました。
駅からほぼ一直線に参道があるので非常に判りやすいです。まずは、仁王門に着きました。仁王門から駅方面を見るとなだらかな坂になっているのがわかります。仁王門には、「定額山」と大きく山号(さんごう)が書かれています。いよいよここからが境内です。
仁王門の次に「山門」があるのですが、仁王門と山門の間に仲見世があり、いろいろと面白そうな品々がありました。
山門は桁行き約20.4メートル、梁行き約8メートル、高さ約18メートルの入母屋造りの大楼門です。寛延3年(1750)に建立されましたとあります。当然国の重要文化財です。この門には、「善光寺」の額が掲げられているのですが、それを通称「鳩字の額」というらしいです。鳩が、5羽隠されているらしいですが流石に判別出来ません。
山門から中に入ると、次は本堂です。調べると、「本堂は、間口23.89メートル、高さ25.82メートル、奥行き53.67メートルの規模をもつ江戸時代中期仏教建築を代表する大伽藍です。敷地面積では、国宝建造物の中では、東大寺大仏殿、三十三間堂に次いで3番目の大きさ」とあります。間口はそれほどでもないのですが、ずいぶんな奥行きがありました。
今回は、時間の関係で一通りを見るだけとなってしまいました。本堂内の内陣から奥は、今回パスしているし、資料館他で歴史を楽しむことも出来なかったのが残念でした。
とにかく、駅から続くいわゆる門前の街並みの大きさから善光寺を中心とした繁栄が実感されました。今年は「ご開帳」の年でしたが、ものすごい人出だったと聞きました。
2015年7月17日